S32-4, S33-2[Sample]                                                 S34-6[Sample]

 

 特色

 この3つは1セットとして作曲しており、願わくば礼拝でもセットで用いて頂けたらと思います。共通のモチーフを持った一貫性のある作りになっている為です。基本的なモチーフは2つです。「感謝聖別・叙唱」に於いて簡素な和声(通奏低音風の)を伴って主題となる全てのモチーフを提示、「聖なるかな」はそれらモチーフを組み直し、和声カデンツも整備、1曲の讃美として完結、「記念唱」では「聖なるかな」と和声カデンツは同一ながら、前曲で主題的役割を担ったモチーフを変形し(変奏し)、新たな展開に至ります。と、いうことは、せめて「聖なるかな」を覚えてしまえば、1セット全てを容易に歌えるようになる!という、ユーザー・フレンドリーな(!!)作りになっているのです。どなたかマジメに分析して下さい。結構、パズルやってるみたいな感覚になって楽しいかもしれませんよ。



 作曲について

 この1セットは改訂員会から要請があって書いたもので、コンセプトが「現代の礼拝学に則って作ってくれ」というものでした。で、そのこころを聞いたところ、“叙唱”から“サンクトゥス(聖なるかな)”にかけては継ぎ目のない大きな流れであり、“記念唱”はその余韻を残して陪餐に向かう展開だと捉えて良い・・・というような事だったかと記憶しています。これは意外と目から鱗で、祈祷書をよくよく読んでみれば、なるほど、このシークェンスはキチンと一本に繋がれているのだなと理解しました。


 曲は厳密に言えば新規に作ったものではありません。2006年2月に妻の従姉妹のためのウェディング・ソングとして書いた「愛してる」(作詞:宮崎千晶、Peter宮崎道/作曲:Peter宮崎道)という曲がオリジナルです。その曲は2部構成になっていて、前半がコリント前書13章を歌った「愛の定義」、後半がポップソングの「何気ない一言で」という形になっています。非常にパーソナルな曲であり公式発表する考えが全くなかったため、前半「愛の定義」を転用することにしました。


 しかしその「愛の定義」を主題として転用しても、そのままでは祈祷書のテキストに当てはまりませんので、旋律を分解し、それら断片から選んだ僅かな音型・音列をモチーフとして再構築したりメタモルフォーゼするという方法を取りました。それぞれの唱は「感謝聖別・叙唱」で繰り返し登場する旋律を共通の主題とした形で、何度か歌えばすぐに馴染んでしまう判りやすさを追求しました。ついでに和声カデンツも大体共通にしました(オリジナルと同じにした)。そうした結果、原曲との差異は大きくなり、全く別の曲になりました。例えば「聖なるかな」で主題の役割を担うモチーフは、「愛の定義」だと歌中の1フレーズ(歌い出しから5〜6小節目みたいな)から“切り出した”ものです。


 このシークェンスのクライマックスは「聖なるかな(Sanctus/Benedictus)」だということは言うまでもありません。ミサ曲の中では最も華やかに盛り上げる部分でもあります。故にこのシークェンスでこれを最初に手がけました。通常、上昇志向の強い旋律が用いられる事が多い「聖なるかな」ですが、私は人力で下から上へ噴き上げるのではなく、上から燦々と照ってくるようなイメージがありました。これは多分、グレゴリオ聖歌の「マリア・ミサ」の影響かもしれません。ですから、上からヒラヒラと落ちてきて、優しく地面に着地する・・・風に舞う羽毛のようにまとめてみました。


 「記念唱」は「聖なるかな」の余韻を受けて、同じモチーフからヒュ〜と降りてくる旋律にまとめました。旋律が、歌い出しの最高音から歌い終わりの最低音に向けて、ひたすら降りてくる・・・というのが意外かもしれませんが、それについて論理的説明はありません。意外だから、面白いでしょう?



 和音を削って浮遊する展開に

 「聖なるかな」では、和声的には何とも理屈に合わない部分が11〜12小節間にあります。主調Cに対して副五度(ドッペルドミナント)であるD7から、サブドミナントのF(add2)に移行しています。壮絶な荒技です! 古典的な機能和声の理屈に合わないので、坂を登り詰めたところで空中に放り出され、浮遊して降下するような感触があると思います。





 こういったカデンツの場合、副五度からドミナント「G」を経てトニック「C」に落ち着いてからサブドミナントである「F」等へ移行するというのが、教科書的な意味に於いては誠に正しい。確かにそうすることによって、地に足を着けたようなシッカリした感触が得られます。実は私も当初、和声付けの際に、そのようなカデンツを書いておりました。





 これだと凄く野暮ったい感じになりましたし、サンクトゥス&ベネディクトゥスの重要なキー・フレーズである「いとたかきところにホサナ」に至る直前で、息をもつかせぬ忙しなさを和音がもたらすのは納得いきませんでした。こうした細かい和声はサンクトゥスの部分に限ってはここだけで、最終段階でゆったりとした3拍子でフワフワ降りてくるようなイメージを大切にしたいと考え、思い切って削ることにしたら、11〜12小節間の“空中放り出し”が産まれたワケです。


 和声でそんなに悩んだり、ヘンなことしないで、旋律そのものを変えてシッカリしたカデンツを構成すれば良いではないか、という見解もあろうかと思いますが、「サンクトゥス」の旋律って意外と魅力的だと思いません?妙にピタっとハマってるしね。


 ですから、ここには「隠された和音」があると覚えて下さい。敢えてユニゾンにせず、ソプラノ以外を休符にしたのは、全パートのユニゾンによって和声を一旦ニュートラルに戻すのではなくて、ここで身体に大きく息を入れることが出来るようにするためです。そうすれば「いとたかきところにホサナ」を歌う直前に、短いブレイクをもうけるのも容易でしょうし、「天地に満つ」の“つ”の部分にフェルマータをかける事も出来ましょう。キチンとカデンツを書いてしまうと、和声の流れが全てをリードしてしまいますから、こうした事は予め意図して(論理的な手法で)作曲しなければ成功しません。



 ちょっとしたこだわり

 「聖なるかな」でいうところの“いとたかきところにホサナ”や、「大栄光の歌」の“もっともたかくおられます”などの箇所では、歴代の多くのチャント作者達が、その言葉の意味から旋律の頂点(最高音)を当ててクライマックスを形成する方法をとっています。これは既に定型になっていると思います。しかし私は、それを敢えて踏襲しようとは意識しませんでした。それは何故か?と訪ねられたら、何故ですかねぇ〜?と答えるしかないんですが・・・。ただひたすら、歌ミサではない礼拝でやるように、祈祷文を唱えて(声に出して読んで)みたらそうなった、というのが最も適当な回答かもしれない。


 試しに祈祷書の聖餐式のページを開き、「聖なるかな」を唱えてみてください。


[Sanctus]
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神
主の栄光は天地に満つ
いとたかきところにホサナ

[Benedictus]
ほめたたえよ、主の御名によって来られる方を
いと高きところにホサナ



SanctusとBenedictusでそれぞれ1回ずつある“いとたかきところにホサナ”で、必ず自然とフォルテッシモになって終止する・・・とおっしゃる方は、エライです、熱いです、熱血クリスチャンです。できれば私も自然体でそうなりたいものです。ですが多くの方が“聖なるかな”や“ほめたたえよ”に一番アクセントをつけ、勢いを付けて唱うと思います。そして最後を締めくくる“いとたかきところにホサナ”は全文中、一番落ち着いて唱えているんではないでしょうか(“主の栄光は天地に満つ”の方が落ち着いちゃうかな?)。けれどチャント(歌)ではよく、必ずその部分に最高のテンションを与えられている。ここにギャップが生じる。


 どういうギャップかと言いますと、それは飽くまで論理的(言語的)なものです。言葉で説明されて判る範疇の内容のことです。例えば、あなたがご自分で音楽に深く足を突っ込んでいないとお思いであったとしても、順序立てて論理的に説明されれば「あー、なるほど!」とポンと膝を打てるような“分かりやすさ”です。そういった場合、音楽が形成される前段階で作者は設計プランを立て、ここんとこナンでこーなっとるの?という質問に対し、十分な論理的説明が成せるようにしますが、言い換えれば論理的思考(左脳指向)に音楽(右脳指向)を追従させるワケです。このようにして作られる音楽は整合性があり、歌詞がある場合は言葉と音楽がシンクロしています。しかしそのリーダーシップを握るのは常に言葉の方であり、音楽はサポーターになります。


 私としては敢えて(脳裏にある祈祷文の印象を受けて)語り出す音楽が指し示す方向へ躊躇なく進み、音楽自身がそのイメージを描き表すのに静かに耳を傾けるという、音楽主導の形でチャントを書くことにしました。このやり方は、私がチャントの中で最初に手がけた「主の祈り」で得た教訓がなければ、絶対やらなかったと思います(この件については「主の祈り」の項目を参照のこと)。そしたら案の定、論理的な音楽の書き方とは違った方向性の曲が登場しました。私はそれを仕上げてから、「結構良くできてンじゃん?」と思いました。“いとたかきところにホサナ”がSanctusでは静かに沈んでいくのに対し、Benedictusでは反対にハイ・ノートへと上昇していき(別の調に解決して終止に至る強烈な意外性は別として)、全体で1つの大きな流れがキチンと形成されているからです。論理的構成による作曲法をしていないので、私は論理的説明はできませんが、音楽がその分いっぱい語ってくれると思いますから、じっと耳を傾けて下さい。


 「記念唱」は、決して深く沈み込まない曲いいな、と最初から考えていました。その代わり、深く祈りに入るような曲がいいなと思っていました。そしたら徹底的な下降旋律のヘンな曲になった!! なんでそーなるの!(“欽ちゃんジャンプ”しながらご一緒にどうぞ!)。 これには私ですら正直、驚きました。しかし沈み込むような重みもなければ、躍り上がって讃美するような明るさもなく、ハレルヤと叫びたくなるワケでもないし、あっちの世界にイっちゃってしまうワケでもない。中途半端やな〜、と言われればそうかもしれない。日本人的な許容量の大きい“グレーゾーン”のチャントかも。だからナンだ、と言われても、やっぱり「なんででしょうねぇ〜」としか答えられませんねぇ〜。

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