特別寄稿: 『カープ・シンフォニー』のこと

第1章:「それゆけカープ - 若き鯉たち」の誕生

 私・宮ア 道(Peter Michi Miyazaki)は1968年に東京で産まれました。父・宮ア尚志はチーム・スポーツに全く興味がなく、TVで観戦するのはもっぱら拳闘(ボクシング)やプロレス。ですが、私らの時代の男子にとってプロ野球はある意味、共通の話題でした。東京の小学生は、特に理由がなければ誰もが読売ジャイアンツ(巨人軍)のファンであり、私も御多分に漏れず“巨人軍”のファンでした…後楽園球場へ行くほど熱心ではなかったのですが。当時の巨人軍は王貞治&長嶋茂雄、俗にいう“ON時代”。TVでは「巨人の星」や「侍ジャイアンツ」などのアニメも放映されており、憧れるなという方が無理なスターが揃ったチームでした。

 そんな野球に興味ゼロの父でも、私達がキャッチボールするための道具をおねだりすればアッサリ買ってくれ、ついでに自分用のグローブも揃えて仕事の息抜きに親子でキャッチボールを楽しんだものです。その間、子供たちのイメージの中では、対戦しているチームは中日ドラゴンズか阪神タイガースで、失礼ながら優勝に縁のない広島東洋カープは眼中に入らないチームでした。

 1975年のある夜の事。父がCBS/SONYレコード(現SONY ENTERTAINMENT)との打合せに出かけて行きました。なにやらプロ野球チームの応援歌作曲の依頼が来ていたようで。巨人軍か?それともドラゴンズか?なんかドでかい仕事を頼まれたんじゃなかろうか?私ら兄弟があらぬ期待をして待っている中、父は普段と違う表情で、ハニカミながら帰宅してきました。

広島カープの応援歌をやることになった。

 その言葉を聞いた私ら兄弟、もう総崩れ。何故だ?こともあろうにカープ…必死に懇願しました、そんなこと友達に知られたら大変だ、恥ずかしくて言えない、その話は断ってくれ…。そんな瀕死の私ら兄弟に、父はトドメの一撃。

巨人にもドラゴンズにも応援歌があるじゃないか。
カープには今まで正式な応援歌がなかったんだ。
だからこれから作るんだ、名誉な事だよ。
ボクが作れば必ず勝つ。
ボクが手がけたCMの商品は全部ヒットしてるだろう?
同じだよ。
それがカープであろうとナンだろうとヒットさせる。
今年のカープはエラく強いらしいんだ。
それならホントに優勝させようじゃないか。
そのための応援歌を作るんだ。
それこそボクの仕事だ。

 その日から家のTVは突然、「対・広島戦」の野球中継ばかりに。しかし気になる事が。あれ?このシンシナティ・レッズのような赤いチームはナンだ? それが古葉監督率いる“赤ヘル軍団”でした。

 気がつけば父は、作詞家・有馬三恵子さんの詞に対して迷いなく1曲を書き上げ、塩見大治郎さんとロイヤルナイツの歌で録音も済ませ、持ち帰ったプリントテープ(マスターのコピー)を家で聞かせてくれました。完璧に父らしいキャッチーなリフレインを持ち(歌の途中で文字列がひっくり返るというスタイルは常套手段)、優れたメロディーとハーモニーに支えられた曲でした。しかも父の出身校である立教大学の「St.Paul's will shine tonight」に、どこか似たムードもありました。シングルのカップリング曲は「勝て勝てカープ」。球団創設当時から歌われてきた応援歌を、父が録音用にアレンジしたものでした。詳しくは判らないのですが、この歌は球団公式応援歌ではなかったとか。

 同年夏にシングル発売された公式応援歌「それゆけカープ〜若き鯉たち」に乗せて、ホントに広島カープがリーグ初優勝を東京・後楽園球場で成し遂げた翌日、近所の友人達は「カープ、カープ…」と父の書いたリフレインを大声で歌いながら街を練り歩き、「カープの応援歌、道のお父さんが作ったんだって?すげぇーな!だってすっげーいい曲だもん!」と次々に自宅を訪ねて来る事態に。恥ずかしながら、このとき初めて父を自慢しましたが、父が応援歌を書いたら球団創設以来初となるリーグ優勝…ベーブルースの予告ホームランのような、そんなウマい話があるもんか。「父は単なるラッキーマン。運が良かっただけに違いない」…それが「それゆけカープ」に対する私の印象でした。とはいえ、現在でもこの曲を聞く度、友人達がTV等で聞いてすぐに覚えて歌って歩くような曲は一体、如何なるものか?耳をそばだてて、その理由を探ろうとした幼い日々が蘇ります。



次は「第2章:宮ア尚志のカープ・ソングス」

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